社会課題解決は大事だけど、それってアタリマエのことであって

なにかと社会起業家なるものとかかわる(当事者になる?)ご縁がありまして、今あれこれやってます。
近いうちに、自分がかかわっている分野のblogを立ち上げようと思ってますが、それまで場がないのでここに書いてみます。


以前も、「【大幅減税!】認定NPOに対する寄付で、所得税額から「寄付額の半額」を控除」とか書いてますしね。

日経ビジネスオンラインの「企業が社会課題解決の主役となる必然と広がる可能性」という記事を読みました。


「企業が社会課題解決の主役となる」というか、今までも企業は社会課題解決でご飯を食べていて、実際そこが一番儲かる分野だったし、そうして社会に貢献してきた主役だったんじゃないですかね?
と早速、タイトルにつっこみをいれましたが、あえてこういう視点をとりあげる必要がある過渡期です(つまりあえてそういうことを言わないといけない現実がある)ので、それはそれでいいと思います。


以下、個々に自分が思ったことについてコメントしていきます。

政府の課題解決力が低下?

P1



従来、こうした社会課題を解決すべき主体と考えられてきた政府は、近年の小さな政府を志向する流れの中で、課題解決力を徐々に低下させてきた。民意が多様化する中で、民主主義的な意思決定には時間がかかる。成熟経済における財政的な制約などもあって、政府の課題解決力が低下するのは構造的なものと見ていいだろう。

低下なのかもともと限界があった(解決できる割合が相対的に減っているだけ)のか。
「構造的」と指摘しているように、私はもともとそんなものだったのだと思います。


価値観の多様化以前、比較的わかりやすい切り口で限られた社会課題に大量投下することで大きく解決していた。
けどそうはいかなくなってきたねぇということで。


だから小さな政府が志向されて低下したわけではないと思います。
順番は逆で、限界があるのがわかったから小さな政府へという方向でしょう。


ちなみに未だに大きな政府を主張するのは、若干幻想入っているかなぁと思います。
ある特定の時代に通用した特殊なパターンを普遍的と思っているんじゃないかと。
このへんは専門分野ではないので自信はないのですが、私の感覚的にはそうです。
いい本あったら教えてください。

若者がより倫理的に?

P2



片や、米国の若者を調査した結果によれば、ボランティア参加比率の向上、犯罪率の低下、薬物、タバコ、酒などの違法使用の割合の低下など、若者がより倫理的になっているようだ。

「若者がより倫理的になっているようだ」ってなんでしょうか。
「若者の社会意識が高まっている」とかいわれると気持ち悪いです。
私がもう若者じゃなくなったってことでしょうか(可能性は高い)


結果としてそうみえるかもしれないけど、意識の問題じゃなくてどういう仕組みなのか背景なのか分析したいところです。
単なる思考停止に見えます。


「いいこと」だからやろう(やめよう)と思うのか。
違うと思います。


少なくとも私は「いいこと」だからと押し付けられたら私は反発したくなる。
天邪鬼なだけでしょうか? それとも「今の若者」は牙が抜けた?


そもそも「いいこと」がそんなに簡単に、画一に定義できるなら、「小さな政府」ではなくて「大きな政府」でいい
官僚組織で一気に進めたほうが効率がいいわけです。


「いいこと」ってそんな一義的なものじゃないでしょ?

いくつかすっとばしてる



(1) 対価の最大化ばかりを考えるのではなく、顧客や社会の真のニーズに応える価値を提供する
(2) 安く調達することばかりを考えるのではなく、バリューチェーンを支える社会やサプライヤーの本質的な生産性を向上させる
(3) 社会との関わりをコストになると避けるのではなく、社会の中で特に自社事業と関わりの深い基盤をより強いものにする

「対価の最大化ばかりを考えるのではなく、顧客や社会の真のニーズに応える価値を提供する」というのは、いくつかすっとばしすぎですね。


「顧客や社会の真のニーズに応える価値を提供する」ことで、最終的に自社の利益の最大化を図りつつ、社会に貢献するのが株式会社の目的。
法人格という特殊な地位を与えられているのは、社会的に有用だからですもん。
そしてそのためには利益の最大化が前提にある。


対価の最大化は、あくまで利益の最大化の手段であって、それだけに過ぎない。
短期的な対価の最大化によって、長期的な利益の最大化できないことは起こりうる。
社会的に有用じゃなければ規制されておわりだからね。


その他、自社の利益を最大化するあまり、社会的にマイナスな行為をする企業があるというかもしれない。
しかし、それは短期的な利益に目がくらんだあまり、長期的な利益を放棄した点が問題なのであって、今更「顧客や社会の真のニーズに応える価値を提供する」なんていうことでもない。


とすると、法人も社会のプレイヤーであることを忘れてはいけないというアタリマエのお話を(1)では書いているだけなんです。
アタリマエのことをあえていう必要があるのはわかるけどね、「顧客や社会の真のニーズ」って「いいこと」と同義っぽく使われてますよね。
けどそれってそんな言葉でいうほど簡単なものじゃない。
よくわからない言葉に振り回されて、自己満足に走り、かえって「顧客や社会の真のニーズに応える価値を提供」できなくなるなんてのはよくある話。


メディア等でよく取り上げられる、社会的企業(株式会社)の内情が苦しくて、もはや社会的課題の解決ではなく、自己の組織の存続に走っている……なんてことはどこでも聞きます。
利益大事なんだよ。じゃないと生き残れないし、本来の目的を達成できなくなるから。


株式会社と異なり、財産の配当ができないNPO法人も一緒。
「自社の利益の最大化」でいう利益に、金銭的価値のみならず、その他の価値の割合が株式会社に比べ相対的に増えるというだけで、そのロジックは一緒です。

結論

CSVにしろ、社会起業家にしても、キーワードをつけないとキャッチーにならないし、社会一般にわかりにくいから、つけるのはしかたない。
その必要性もわかる。


しかし一種の思考停止の材料であることは忘れちゃいけない気がします。


例えば、実際に自分がその言葉に振り回されて、社会起業家はいいことしてるからみんなの支持が得られる」となんて思うのは妄想という他ありません(自戒も込めて)。
得られやすくなるのは確かだけど、その分事業で努力を怠っていいという話でもない。


そもそもみんながスルーしていた本質的な社会的課題を発見し、認識してもらって、解決してみせるという曲芸をするのが起業家です。
みんながいいことだと思って支持してくれるならとっくに問題は解決してるよ。と(笑)


つまりは普通の起業と一緒なわけです。
むしろ、普通の起業より最初から自分の手足をしばってることが多い分いっそう苦しいでしょうね。
覚悟が必要です。


だからCSVとかも、う〜ん、この記事にあるとおりだとどうかな。
CSVはカンマ区切りテキストフォーマットでいいよ(笑)